幽体離脱(四次元の世界)


三十代の前半の頃でしょうか。愛するまだ幼い我が子と妻のために、少しでも良い給料を稼ぎたいと思い、私は転職をしました。慣れない仕事と人間関係で疲労困憊している私の泣き面に蜂。瞬く間に不景気の波が押し寄せ、リストラの嵐が吹き荒れたのです。

 

荒波に飲まれ、行き着いた先は車で片道二時間弱の職場でした。しかも夜勤専属十二時間労働なので、睡眠時間もままならない毎日。いつクビになるか分からない派遣社員で給料は時給制、上司は厳しい年下の正規社員。辞めたくても次の仕事など見付かる当てもなく、陣痛にも匹敵する痛みを伴うと言われる尿路結石などを患いながらも、クビが恐くて懸命に働きました。

 

正直言って地獄でした。逃げたくても逃げられない生き地獄。幼い我が子と愛する妻を残して自殺などとんでもないと思いながらも、いっそ死んでしまいたいと思う毎日。布団に入る瞬間がとても幸せに感じましたが、気が付くと出勤時間になっていて、時計を眺めながら夢であってくれ……、睡眠前に時間よ戻れ……と、いつも思っていました。

 

あくる日のこと、布団に入って間もなく金縛りに遭ったのです。そのまま動かずに寝ようとしたのですが、不快さを感じて、どうしても金縛りを解きたくなりました。強引に起きようとした時のことです。グオンという大きな音とともに、私は上半身を起こすことに成功しました。が、その上半身は、私であって私ではなかったのです。霊体とでも言うのでしょうか。上半身だけ起こした私は、そのまま今度は天井に向かって移動しました。それは意識しての行動ではなく、無意識の行動でした。

 

ふと下を見ると、肉体の方の私は布団を被り、眠ったままの状態でそこにありました。

驚くほど摩訶不思議な光景であるはずなのに、まるで他人を見ているかのように私はさばさばしていて、寝ている自分にそれほど興味は湧きませんでした。そして私はその肉体を視界から外し、窓の外へと向かったのです。

 

私は空を飛んでいました。道路の上空を、車ほどの高速スピードで真っ直ぐ、どこに向かうともなく進んでいました。電線が左右に見え、その向こうには家々が連なっていました。その家々の向こうには、山々や雲が見えました。

 

その風景はまた異常でした。すべてが白黒であり、たとえば家が見えるとすると、目を凝らせばその家の中が透視できたのです。テーブルで食事をしている家族が見えたりしました。そして、その墨絵のような白黒の世界も、どこかを想像すると、瞬時に移動ができたのです。

 

しばらく空中遊泳を楽しんでいましたが、現実世界が気になって時間を確認しようとすると、今度は瞬時に肉体に戻り、現実世界の時計を見ることができたのです。まだもう少し時間があると思うと、今度はまた白黒の世界へと戻ることができました。白黒の世界の時間は、現実の世界の時間とほぼ同時進行のようでした。

 

出勤時間になると、私は渋々現実世界の身体へと戻り、嫌々ながらも職場へと向かいました。ろくに睡眠も取っていないのにもかかわらず、思ったほど疲れてはいませんでした。

 

金縛り中の出来事なので、私は自分が体験したことは夢だったのではないかとも考えましたが、通常通りに起きた後も、鮮明に出来事を覚えていました。しかも途切れ途切れなどではなく、全てをしっかりと覚えていたのです。それは通常見る夢とは明らかに違うものであり、どれほど時間が経っても忘れる光景ではなかったのです。実際に自分が体験した記憶として、全ての時間が脳にしっかりと焼き付いているのです。

 

そして、その翌日も、そのまた翌日も、私は同じ事を繰り返すことに成功したのです。それは紛れもなく事実でした。一時の夢のようなものだとばかり思っていたのに、幾度となく幽体離脱に成功し、空中遊泳を楽しめるようになったのです。

 

私はその事実を誰にも言いませんでした。妻にも言いませんでした。それには理由がありました。自分でも、この先どうなるかなど想像もつかない出来事だったので、一抹の不安があったのです。万が一その世界から戻れなくなったときは、おそらく現実の世界では死を意味する時だと思っていました。ですので、妻にはそんな死と隣り合わせの危険な遊びに夢中だなどと、死んでも言えないわけです。

 

そんな摩訶不思議な白黒世界で空中遊泳を連日のように楽しんでいましたが、仕事の時間が近付くたびに、私は起きることに苦痛を感じるようになりました。それもそのはずです。寝れば天国、起きれば地獄なのですから。

 

私はこのままずっと布団から出ずに、夢の世界で遊んでいたいと本気で思うようになりましたが、目を覚ませば可愛い我が子と愛する妻。私は歯を食いしばりながら職場へと行くようになりました。